
先の大戦で各島々の守備隊が、苦い思いをした上陸用舟艇、LCM-3です。
本日は、帝都東京から南へ、約1200キロ小笠原諸島の一つ硫黄島が、舞台です。

当時の硫黄島には、写真の様な妨害柵は、無かったでしょう。
この島で、日本軍2万933名に対し、米軍2万8686名と言う太平洋において、米軍の死傷者が、日本軍を上回った唯一の戦が繰り広げられました。

栗林中将の指揮の下、これまでの水際撃滅作戦を放棄し、地下に入ってモグラとなり、敵の艦船や飛行機とは戦闘せず、上陸部隊だけと戦う。一人十殺の思想を、全軍に徹底し我々は、最後の一兵となるも、敵を悩まさん。

彼らの上陸した島は、死に者狂いの生還を望まない、死兵と化した日本兵の待ち受ける、修羅場でした。

昭和20年2月19日午前9時、約2万の小笠原兵団の待ち受ける硫黄島に、リッチモンド、タナー中将率いる米軍が、上陸開始。

上陸の前の三日間、猛烈な艦砲射撃と空爆が繰り替えされます。これに耐えかねて、砲火を開いた一部の大砲部隊は、破壊されましたが、他の日本軍守備隊は、地下複郭陣地に潜んで反撃の時を待っていたのだ。

米上陸部隊は、第八波まで、日本軍の抵抗も無く、約9000人が上陸。第4師団は、元山飛行場へ、第五師団は、島中央部と、摺鉢山攻略に向かったのでした。

この時、日本軍の反撃が開始されたのです。迫撃砲と野砲をもって、米軍の上陸地点を猛射し始めたのでした。この日上陸した米軍3万1千名中、500名戦死、1800名が、負傷しました。

翌20日以降、小笠原兵団は必死の抵抗を示しましたが、米軍の物量に各飛行場、拠点を奪われていき、刀折れ、矢尽きた日本軍は、3月17日をもって最後の出撃を決意、大本営に決別の電報を、うちます。

3月14日米軍は、硫黄島占領を宣言、栗林兵団長は、26日早朝出撃を決行、兵力は陸海合わせて400名、米軍宿営地を急襲、3時間の乱闘の末、玉砕しました。しかし硫黄島を5日で平定という米軍の計画は、大きく遅れたのでした。
今回は、講釈は控えようと思ったのですが、いけませんねー、硫黄島と言うこともあり、ついつい力が入ってしまいました。反省、反省。
最近途切れがちのブログにも反省しつつ、では、では
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